映画『ナミビアの砂漠』を観て、「正直よく分からなかった」と感じた方は多いのではないでしょうか。
大きな事件が起きるわけでもなく、登場人物たちは感情をはっきり言葉にしないまま、関係性だけが静かに変化していきます。
隣人との焚火、喧嘩映像を見ながら走るカナの姿など、印象的なのに説明されない場面が数多く残る映画です。
しかし振り返ってみると、その「分からなさ」こそが、この作品のテーマなのではないかと感じました。
本記事では、『ナミビアの砂漠』が分からないと感じる理由を出発点に、主人公カナの人物像や、ホンダ・ハヤシとの関係、隣人やランニングのシーンの意味などを整理しながら考察していきます。
明確な答えを出すのではなく、観終わったあとに残った違和感に言葉を与えることを目的とした考察です。
映画『ナミビアの砂漠』のあらすじと作品情報
あらすじ
世の中も、人生も全部つまらない。やり場のない感情を抱いたまま毎日を生きている、21歳のカナ。
優しいけど退屈なホンダから自信家で刺激的なハヤシに乗り換えて、新しい生活を始めてみたが、次第にカナは自分自身に追い詰められていく。もがき、ぶつかり、彼女は自分の居場所を見つけることができるのだろうか・・・?
(引用:公式HP)
作品情報
- 公開年:2023年
- 監督:山中瑶子
- 主演:河合優実
『ナミビアの砂漠』が分からないと感じる理由
ストーリーで理解する映画ではない
この映画は、起承転結や明確な成長を描くタイプの作品ではありません。
問題が提示され、解決されるという分かりやすい構造をあえて避けています。
そのため、「何が言いたいのか分からない」「オチがない」と感じるのは自然な反応です。
「分からなさ」を体験させる構造
本作は、観客に答えを与えるのではなく、分からない状態をそのまま体験させる映画だと感じました。
説明されない会話、唐突な行動、意味が分からない映像は、カナ自身の内面と重なっています。
つまり、観客が感じる違和感は、そのまま主人公の感覚でもあるのです。
カナはどんな人物なのか?病気なのか?
感情と言葉が結びついていない人物
カナは、自分の感情をうまく言葉にできません。
怒っているのか、悲しいのか、自分でも分かっていないような瞬間が多く描かれます。
会話は噛み合わず、突然怒ったり黙り込んだりする姿は、周囲から見ると「変な人」にも見えます。
病気や発達障害と断定できない理由
カナの行動から、精神的な病気や発達障害を連想する人もいるかもしれません。
しかし映画の中では、それを裏付ける描写は一切ありません。
本作は、カナを何かのラベルで説明することを拒否しています。
原因を明示しないことで、「分からないまま生きている人」の姿そのものを描こうとしているように感じました。
なぜカナはホンダと別れ、ハヤシに乗り換えたのか
ホンダといる時の安定は本物だったのか
ホンダと一緒にいる時のカナは、比較的落ち着いて見えます。
ホンダは感情に向き合おうとし、話し合いをしようとする人物です。
しかしその安定は、カナ自身が「ちゃんとした彼女」を演じていた結果とも言えます。
役割に収まっている間は崩れないものの、内側は消耗していたように見えました。
ハヤシに求めたのは理解ではなく無関心
一方、ハヤシはカナに深く踏み込みません。
感情を整理することも、答えを求めることもしない相手です。
カナにとってハヤシは、説明しなくていい存在でした。
その結果、抑え込んでいた感情が一気に表に出てしまい、関係は荒れていきます。
ホンダとの子供を中絶したという話は本当なのか
事実か嘘か断定できない演出
カナが語る「中絶した」という話について、映画は真偽を一切示しません。
病院の描写も、身体的変化も描かれないため、事実だと断定することはできません。
なぜその言葉を口にしたのか
重要なのは、事実かどうかではなく、なぜその言葉を使ったのかです。
中絶という取り返しのつかない言葉は、相手との会話を一気に断ち切る力を持っています。
カナは、これ以上踏み込まれないために、その言葉を選んだように見えました。
ハヤシはなぜカナと別れなかったのか
決断できない優しさ
ハヤシは、カナに振り回されながらも関係を終わらせません。
それは愛情というより、決断を避ける姿勢に近いものです。
別れることは、相手を傷つけ、自分も孤独になる覚悟が必要です。
ハヤシはその覚悟を持てなかったように見えます。
共依存未満の関係
二人の関係は、支え合っているわけでも、強く愛し合っているわけでもありません。
ただ一人になるのが怖くて、惰性で続いている関係です。
隣人との焚火シーンの意図は何か
隣人は意味を持たない他者
隣人は、名前も背景もほとんど語られません。
カナにとって「誰でもよかった存在」です。
焚火が象徴する一時的な温度
焚火は一瞬温かいですが、長くは続きません。
あのシーンは、居場所にならない関係性の象徴だと感じました。
喧嘩映像を見ながらランニングするシーンの意味
喧嘩映像は処理できない感情の記録
取っ組み合いの喧嘩は、怒りや混乱がむき出しになった瞬間です。
それをカナは、他人事のように眺めています。
ランニングは感情を感じないための行為
走ることで身体を疲れさせ、感情を麻痺させようとしているように見えます。
向き合っているようで、実は向き合っていない状態です。
カナがキリンの動画を見ていた理由
キリンは遠くを見る生き物
キリンは高い位置から、遠くを見渡す生き物です。
それは現実から距離を取る視点を象徴しているように感じました。
自分の人生を他人事として眺めている状態
カナは、自分の人生に当事者意識を持てていません。
キリンの映像は、その感覚を静かに示しているように思えます。
まとめ|『ナミビアの砂漠』は分からなくていい映画
『ナミビアの砂漠』は、答えを提示しない映画です。
分からない、モヤモヤする、不快だと感じること自体が、この作品の正しい受け取り方なのかもしれません。
はっきりした救いはありません。
それでも、なぜか忘れられない違和感だけが残ります。
分からなかったという感覚を抱えたまま立ち去ること――
それこそが、この映画の核心なのだと思います。


